車で2時間ばかり走りますと、
なだらかな丘陵地帯に着きます。
その丘の上に彼の地で名高い
「ニュービリビット刑務所」があります。
この場所は太平洋戦争終結後、
あの山下将軍以下の「日本人戦犯」が
収容されていた旧名「モンテンルパ収容所」として知られるところでございます。
この地で無実の罪に問われた「B級C級」戦犯14名が「銃殺刑」に
処されております。
14名の「英霊」の「悲劇」の一部始終はその処刑されるまで教誨師
として「処刑執行」に立ち会った高野山僧侶加賀尾秀忍師によって
「モンテンルパに祈る」「図書刊行会五十七年刊」の本に記されております。
感動的な読本でございます。機会がございましたら皆さまに
是非ご一読されることをお勧めします。日本人としての
立ち位置を覚醒させられる、実に感銘深い本でございます。
「英霊」の「御霊」を祭った「墓碑」が、刑務所近くに建てられております。
「モンテンルパ世界平和記念公園」あたりは時折訪れる日本人によって
たむけられた線香の臭いがいたしております。
その線香の臭いが安らぎを与えてくれ、何か救われるような気がいたします。
「墓碑」周辺は、フィリピンの有志によって年中雑草が刈りとられ、
花が植えられてあり「聖地」にふさわしい美しいたたずまい
となっております。
この地より遠い夜空に輝く南十字星を見つめながら、妻や子や親兄弟に
思いを馳せ、万感の思いを抱いて死んでいったであろう「英霊」たちの
「無念」を思うとき、涙を禁じえないのでございます。
旧「モンテンルパ収容所」、現在は「ニュービリビット刑務所」には、
死刑囚や無期懲役囚といった、おもに「重犯罪」を犯した「長期受刑者」
が四千人ほど収容されております。
数十人の罪のない民間人を爆殺したテロリストから連続殺人犯、
銀行強盗から強姦魔、誘拐殺人犯と、フィリピン中から集められた
名だたる悪漢どもが収容されておるのでございます。
私が最初にこの場所を訪れたのは25年ほど前のことでございます。
当時この「刑務所」に一人の日本人が収容されていたのでございます。
彼の立場は「死刑囚」でした。拳銃の不法所持、麻薬、殺人の容疑で
逮捕され「死刑」の判決を受けていたのでございます。
彼の名前はOといいました。
彼の存在はマニラに撮影に訪れたとき、ガイドの日本人通訳に
「日本人で死刑囚になっている人間いる」との話をきき知りました。
その頃は私自身がハワイで懲役370年の求刑をされて10ヶ月に及ぶ
裁判の果てに日本人への「帰還」を果たしてまもなくの頃でございました。
場所はハワイとフィリピンと違っていても、同じ異国で「囚われ人」に
なっている彼に興味を持ちました。
ガイド氏によれば彼は「無実」を叫んでいる、という「噂」だ、
とのことでございました。ハワイでの我が身のことを思い、
とりあえず彼に会って話しを聞いてみようと考え、
この「ニュービリビット刑務所」を訪れたのが最初でした。
Oは私と同じ年でした。会うと自分は無実である、こんな場所で
死にたくない、助けて欲しいとOは必死で懇願するのでした。
地獄に仏、の心境であったのでしょう。
彼の真摯な態度に、自分のハワイの拘置所での過酷な体験がよみがえり
心が動きました。
それから4、5ヶ月の間に7、8回ほど彼のもとを訪れ、お金や食料品などを
差し入れしながらフィリピンで逮捕されるまでのOのそれまでの人生を
インタビューしました。そしてそれを「俺は死刑囚だ」という一冊の
本にまとめて日本で出版しました。
それから色々あって、無事Oは「釈放」されることとなり、日本への帰還
を果たしたのでありますが、本稿はそのことが「主題」ではありません
ので、ことのあらましを書くのは別の機会にしたいと思います。
何度かの「ニュービリビット刑務所」の訪問で強く感じたのは
「警備」体制のことでございます。
なまじ日本や米国での厳重な警備下での「鉄格子」生活の経験が
ございましたので、彼の刑務所の「警備」体制の希薄さに驚かされた
のでございます。
フィリピンの中の「我れこそは極悪人なり、人殺しなど朝飯まえ」の
極悪人を四千人も収容しておりながら、刑務所の面会者の出入り口は
別として、その他のほとんどの場所に看守の姿を見ることができない
のでございました。
5、6mの高い塀の四隅には「監視塔」が設けられていて、その中に
ライフルを持った看守の姿を見かけることができるのですが、それ以外
には看守の姿が見えないのでございます。
国家予算が少ないために看守の数が少ないだ、がガイド氏が質問した際の
看守の答えでした。「懲役」などといいましても、彼の国の「刑務所」では
労役がありません。
「労役」がない変わりに満足に三食の食事を支給されることもないの
であります。囚人たちはそれぞれが外部の家族から差し入れしてもらった
お金で食料品を買って生活することが求められているのでございました。
国が貧しいので、悪いことをして捕まった人間に使う税金は無い、
という非情な論理でございました。
刑務所内にはその為の売店がいくつも設けられてありました。
それらの売店は外部の刑務所御用達の出入り業者が経営している店もあれば、
小金持ちの囚人自からが経営している店もあります。
魚屋、肉屋、雑貨屋と多種多様な店がありましたが、新鮮な野菜を求める
囚人たちのなかには刑務所内に自給自足の為の畑をつくっている者も
いました。昼中は女子供たちの姿も見うけられます。面会に来た
囚人たちの家族でございます。和気あいあいと談笑しながら食事を囲む
家族団らんの姿があちらこちらに見ることができるのでございました。
まるでフィリピンの地方都市のどこにでも見られるような田舎の
小さな集落の、のどかな風景がそこにありました。また中に
オカマや若い女性たちの姿も見ることができました。売春婦たち、
でございいます。
彼等の入退出は面会時間内であれば「黙認」されているのでございました。
金さえあれば「天国に一番近くはないが、まったく遠くでもない」
恵まれた環境でございました。
が面会に行く度に見せるOの表情はいつも険しいものがありました。
その眼にはいつもランランと輝き、あたりを警戒して油断する
ことのない用心深さがありました。
彼はこの場所で四、五年過ごしていました。彼は彼を兄貴分、
として慕う四、五人の弟分の男たちを従えていました。
彼等はいつもOの周りを守るかのように取り囲んでいました。
Oにインタビューしている間、男たちはOと私をガードするかの
ように周囲に厳しい目を配り、スキを見せることがありませんでした。
まったりと時間が過ぎてゆくのどかさのなかで暮していながら、
どうしてこんなに彼等は緊張を解くことがないのだろう、と不思議な
気がしていました。ある時そのことをOに質問してみました。
そしてOの返答で、この刑務所の警備体制が希薄であっても充分に
とどこおりなく「管理」できている「秘密」を知ることができました。
Oの話とは次のような内容でした。
「フィリピンには大きく分けて五つの犯罪組織があります。
フィリピンの犯罪者というのは、どこかそれらの犯罪組織に必ず所属
しているものです。たとえそうした組織に所属していたことが
なくとも、この刑務所に入ればどこかの組織に入ることになります。
何故ならどこかの組織に所属してそのグループの一員にならなければ
身を守って安全に生きていけないからです。この刑務所の中では
小さい大きいの多少の差はありますが、5つの組織が互いに力を誇示し、
外での縄張り争いを引きずりながら対峙して一触即発の状態にあります。
毎週のように小さな小ぜり合いがこの広い(東京ドーム二個分位)
刑務所内で起き、ケガ人や時には死人まで出ています。私もマニラで生活
していたときはそうした組織とは無関係でした。が自己防衛の為にいまは
この刑務所内での最大の派閥である「シゲシゲ団」なる組織に属しています。
刑務所側は組織対組織の抗争には一切関知してきません。見て見ないふり
をしています。死人が出ても「病死」や「突然死」として取り扱い、
人殺しをした犯人を割り出して捜査するなどといったことはしません。
たとえ捜査してもこれだけの数の犯罪者の群れから犯人を探し出すことは
不可能だからです。刑務所当局はそうした組織同士の緊張関係を
放置していた方が、互いの密告や監視によって暴動や脱獄を防ぐことが
できると考えているのです。ですからたった数十人の看守でも十分刑務所の
「管理」を運営ができているのです。」
このごろの我が国の政治状況を見るにつけ、あの時のOの話を思い出します。
麻生、惜敗を期してさまがいて、鳩ポッポ1号2号がいて、古賀悪代官がいて
小沢不動産蓄財屋にエロ猿東国原身の程知らずにも程があるセールスマンと、
面々の顔ぶれを見るにつけ、あの「ニュービリビット刑務所」の悪漢諸君の
悪相と比べても負けず及らずではないか、と思ったりしてございます。
只今の政局の行方を真面目に考え、焼きもきすることが馬鹿々しく感じられる
のでございます。看守たちはいつも余裕の薄ら笑いを浮かべていました。
ワルを退治するには争わせてサバイバルゲームをさせるのが1番、
とのお手並み拝見の気分だったのでしょう。
ここはあの刑務所の看守達に見習って高みの見物とすることが、余程自身の
健康の為には大切なことではないか、と得心しているのでございます。
読者の皆さまにも同じ看守となられた気分で、四隅の高き監視塔から
睥睨される余裕を持って政局を見られることをお勧めするのでございます。
それにつけても、でございます。あのモンテンルパの丘の上に祭られている
「英霊」たちは、天国からどんな思いを持って只今の日本の政治状況を
見られておるのでありましょうか。
長嶋茂雄と息子の一茂の間がこじれて裁判沙汰になりかかっている
ようであります。「成功者の失敗ほど人間の嫉妬心を満足させるものはない」
といいますが、脳梗塞で倒れたあと、女房に先だたれて、このたびの
「お家騒動」と「長嶋・命」の時代を生きてきた団塊の世代の一人としては、
「ミスター」がなんともまあお気の毒に思えてならないのでございます。
他の人さまの家のことでございますので、うかつに物は言えませんが、
一茂も一人前の「大人の男」なのですから、もう親離れをしていいかげん
「オヤジの米ビツ」に手を入れるようなことは一切止めにすべきでございます。
長嶋一茂などと申しましても「長嶋茂雄」あってのことでございます。
「ミスター」がいなければただの「ゴミ」ごとき無知無能の男でございます。
「ヴァギナ」があっての「小陰唇」なのだ、ということをよくよく承知
なされて自重されるがよろしいのです。「子孫に美田を残さず」とは
よく云ったものでございます。
昔、私の友人に北陸地方の有名な豪族の家に生まれた跡取り息子
がおりました。彼の身内は不幸にして早く亡くなられて、
年老いたジイちゃんと彼の二人だけの身内となっていました。
その彼が事業に手を出して資金繰りに追われるようになりました。
彼はそのつど国許に帰へり山や畑や田んぼを売り払って金に換え
事業資金にしていました。ほんの数年で北陸一といわれた財産の
ほとんどあらかたを売り払ってしまいました。
最後に大きな屋敷が残りました。彼はその家も売り払って金に換えよう
としました。「なんとかこの家だけは売らずに残してくれ」ジイさんが
家の権利書を持って出かけようとする彼の背後から飛びかかりました。
ジイさんにとっては家もさることながら、手塩にかけて育ててきた
庭の盆栽を失なうのは死ぬよりつらいことでした。
ジイさんは両腕を彼の首に廻してぶらさがり、その小さな体を子供が
だだをこねるようにゆらしながら孫に頼みました。
講釈士のように何故見てきたことのように書けるかと申しますと、
その現場に私がいたからです。
孫はジイさんの体を背負い投げするように畳の上にたたきつけました。
彼には黒帯の心得がありました。ジイさんは「ウムッ」と声を上げて
畳の上に大の字になってのびてしまいました。
「生前贈与だと思ってあきらめろよ」とうそぶいて家をあとにする彼の
後を追いながら、ジイさんが心配になって振り返りました。
両の手を畳の上に突っ張りながら起きあがろうともがいているジイさんの顔と
バッタリ眼が会いました。80にならんとする白髪のジイさんの憤怒の形相を
今も忘れることができません。
親の七光ならぬ「親の不幸と不遇」をバネにして見事大輪の花を咲かせた
二つの名花がおります。二谷友里恵と倉木麻衣でございます。
二谷友里恵はただいまはご存知のように全国展開して飛躍中の
「家庭教師のトライ」の代表取締役を務めております。彼女の父親は
往年の二枚目俳優として知られた「二谷英明」でございます。
この十年老いゆえの痴呆症を発症して、全く人前に姿を見せることが
なくなりました。愛妻白川由美の献身的介護による療養の日々を送っておる
のでございます。
かくのごとき晩年でありたい、と誰もがうらやましがるような二谷英明の
幸福な境遇でございます。その二谷英明にこの七月、これ以上の
プレゼントはない、と思われるステキなプレゼントが娘友里恵から
贈られました。
娘が社長を務める「家庭教師・トライ」のCM出演でございます。
無論痴呆となった現在の二谷英明ではございません。
30年前のテレビ番組「特捜最前線」に出演中の、二谷友里恵が
高校一年生だった頃の若かりし日の二谷英明でございます。
CMでは二谷英明が画面いっぱいに映り、話し走り叫ぶタフなシーンが
展開するのでございますが、それは「家庭教師・トライ」のCM
というよりも「このステキな男性が私の大好きなパパ」という娘友里恵
から闘病中の最愛のパパへの応援メッセージといえるものでございます。
公共の電波を使い、数億円の金を投じて「パパへのラブコール」を
贈ってくれる娘を持った父親の幸福は、ここに極まるのでございます。
それはなまじ人気者の娘として友里恵が芸能界で生きることをヨシ
としなかった、父親の見識の勝利であります。スターは運によって
スターになれるのだ。努力や実力がまったく反映されない「芸能」の世界に、
生きるべきではない、との父親の「進路指導」が勝ったのでございます。
山口百恵が現代にデビューしても、決してスターになることは出来ない、
スターや人気者とは「時代の申し子」なのだ、との洞察が娘を芸能界から
遠ざけ一流の経営者となる道を歩ませたのでございます。
宝クジ3億円を親子二代に渡って当てることができる家族など皆無
であるのに、何故か昨今は二世たちの芸能界デビューばやりでございます。
自からの芸能活動をかえりみて「運次第」のバクチ打ちがごとき「芸能界」
に進路をとらせるは、無責任のそしりはまぬがれないのでございます。
二谷友里恵のごとく、努力や実力が結実する実社会での堅実な道を歩むよう
導くことが、芸能バカならぬ真の親の愛というものでなないでしょうか。
倉木麻衣の父親の山前五十洋は私の友人でございます。山前氏は実に子煩悩な
男でございました。いつも幼なかった頃の子供たちの写真を胸に忍ばせて、
会う人ごとに「これが俺の子供なんだ、どうだ可愛いだろう」とお披露めして
一人悦に入っているのでした。
事業に失敗し借金取りに追われる身となって新大久保の古いアパートの一室に
身を潜めていました。アパートはビデオや編集機材がビッシリ収納された倉庫
として使われていた場所で寝る空間などはありませんでした。
そこのトイレとお風呂場のわずかな空間にダンボールを敷いて寝ドコと
しながら山前氏は何年もの長い間生活を送っていました。彼の職業は
「映画監督」といわれていましたが、特技はスカウトでございました。
少年時代は子役としてテレビ番組の主演を張り一世を風靡した経歴を持つ男
でございます。男前、でございます。人柄も決して悪くありません。
どちらかというとお人好し、といった部類の人物です。
押しの強さと鉄仮面が武器となって彼のスカウト力はなかなかなものが
ございました。高校生だった浅野温子も彼のスカウトによって芸能界デビュー
を果たした一人です。テレビ局の楽屋での演技指導に熱が入り浅野温子が
つい出してはイケナイ声を出してしまって騒動になった、といった逸話も
残されております。
スケベさが身を助け、スカウトの色気となって開花するのであれば
文句のつけようはないのでございます。浅野温子以外に山前氏が
スカウトして有名となった女優の例は少なくありません。
スカウトの世界は一見華やかな世界でございますが、労多くしてむくわれる
ことの少ない、下積みの世界であります。なかなか思うような収入を得る
ことはできませんでした。
それでも週末に女房ドノに渡すわずかな金を持ち子供たちへのプレゼントを
抱えて船橋の家へ帰へって、一家団らんの時間を過ごすことが唯一の楽しみでした。
ファミレスで食事をしながら家族たちの前で
「パパは必ずみんなを幸せにするように頑張る」が口グセでした。
彼は家族を心の底から愛していました。女房ドノも子供たちも彼を
信じてくれている、と彼は確信していました。
ある日女房ドノから彼に提案がありました。
(この女房ドノは満足に挨拶も出来ない人間、としてスコブル仲間内では
評判の悪い女でした。失礼・・・)
「あなたの借金もなかなか無くならないから、
子供達を借金取りから守るために偽装離婚をしたい」
との申し出でした。
山前氏は、それが子供たちのためなら、と快諾して離婚届けに判を
押しました。そして次の週の週末、また楽しい家族団らんのひとときを
過ごそうと船橋の家に帰へると家はもぬけの空となっていました。
子供を連れて女房ドノが大阪の長戸大幸のもとへ出奔したのでございます。
それからの山前氏の裏切りへの復讐騒動の顚末は、読者の皆様もよく
ご存知の通り、でございます。
最近の山前氏はようやく心の平和を取り戻し、おだやかな日々を過ごすことが
できるようになっています。娘がその命の終わりのときを迎えるときまでに、
父がどれほど彼女を愛していたか、を知ってくれることがあれば
それでありがたい、との大きな愛にめざめています。
倉木麻衣の神話に「トンデモナイ非道の父親に虐たげられた、可愛そうな麻衣」
の物語があります。そうした不幸にめげずに頑張るけなげな麻衣、
へとファンの喝采はいやさかとなっているのでございます。
娘孝行は「極道の親父であり続けること」の道を歩む一人の男ありけり、
でございます。
真夜中にふと目がさめてわけもなく、泣きたくなりて蒲団をかぶれる。「石川啄木」

